【日本の人間学】は、「人としての要素(成り立たせているもの)」として、「人としての“本質的要素”」と「人としての“付属的要素”」の2つに分けています。
1.人としての“本質的要素”
◆人としての【本質的要素】とは、これがなくては「人」が「人」でなくなるという重要な要素で【道徳性】のことです。
この【道徳性】がないと、「人間(道徳)的判断」ではなく、「動物的判断」たる自分自身の利(損得)による不正や虚偽を当然の如く行ったりして、「人の格好(姿)」をしているだけで、「人」とは言えません。
◆「人でなし」という言葉があります。その意味を調べると、下記になります。
⇒人情の欠落した人、酷薄(こくはく/残酷で薄情)な人、冷酷非道な人、という意味で用いられる表現。
⇒人ならば、誰しもが持ち合わせていると言い得るような、優しさや思いやりの心を持ち合わせていないかのように振る舞い、他人には常に情け容赦がない、といった人を評する言葉として用いられる。
◆もっと酷(ひど)い人に対しては、「ケダモノ(獣)」に例える場合もあります。「ケダモノ(獣)」とは、四足で歩く動物のことで、「人」と「動物」を完全に分けています。
◆人としての【本質的要素】である【道徳性】を修得する(身を修める)学問が【日本の人間学】です。人としての根本でもあるため、これを【本学(ほんがく)】とも言います。
【道徳性】と言っても“ピン”とこない方もおられるでしょうから、この段階では、「人としての“正しい心(道)”」、または「人としての“正しい秩序(事を行う場合の正しい順序や筋道)”」と捉えて下さい。
◆通常、若い時に自分自身の「人格(人としての主体)」の根本を築く【日本の人間学】をしっかり学ぶことで「人物(優れた人)」ができ、この「人格」の根幹的完成は、まず25歳までで、それからは惰力で30歳から40歳までいく、とも言われています。
◆また、人としての【本質的要素】に準じるもので大切なのが【習性(躾)】です。【習性】とは、「習慣」によって出来上がった性質(癖や習い)のことです。また【躾(しつけ)】とは、「善い習慣」を身に付ける(養う)ことです。
◆「習慣」とは、自分自身が特別に意識せずに、日常または定期的に繰り返し行っている行為のことです。この「習慣」を無意識に近い状態で行っているのを「習慣化」と言います。そして、この完全に「習慣化」された状態を【習性】と言います。
◆「習い、性(せい)と成る」という言葉があります。これは、「習慣」を続けていると、終(しま)いにはその人の持って生まれた性質のようになるということです。ゆえに、「習慣」は、“第二の天性”とも言われており、人としても重要な要素でもあります。
◆また、【躾】の本質は「善い習慣」を身に付けることにあります。日常生活の小事(些細な事柄)に見えることでも、毎日そして毎回できるようにすることが【躾(しつけ)】の本質です。ゆえに、「善い習慣」は自分自身を躾(しつ)けることにもなります。
2.人としての“付属的要素”
◆一方、人としての【付属的要素】とは、大切なものではありますが、「人として」という本質的なことから見れば、これ自体が少々足りなくても差し支えないもので、これが「知識や知能」と「技術や技能」です。
◆この「知識や知能」と「技術や技能」の「習得」が【時務学(じむがく)】で、これを【本学(人間学)】に対する【末学(まつがく)】とも言います。
「時務(じむ)」とは、その時代の仕事や務めに必要な「知識や知能」「技術や技能」のことです。
◆この【時務学】は、文明社会における企業の利益や、人々の生活のための収入を得るための手段としての「知識や知能」「技術や技能」を「習得」して、お金を稼ぐやり方でもあるため、これを重点的に「習得」すること自体が魅力的にもなっています。
◆我が国の戦後の学校教育は、【人間学(本学)】を教えずに、この【時務学(末学)】を教えています。
「本来の教育」とは、人としての【本質的要素】である【人間学(本学)】を学ぶことであり、戦後の我が国の教育は、この【時務学】が【本学】で、【人間学】が【末学】の「本末転倒(根本と枝葉を取り違えている)」のとても残念な状態になってしまっていることです。
3.【基本1】のまとめ

