1.なぜ、英国で“産業革命”が始まったのか!
◆金利が高かったり、資本市場が発達していない(資本の調達コストが高い)地域では、資本の利用を増やすことができません。たとえ、安価な燃料と資本市場が存在しても、給与水準が低ければ、労働を機械に置き換えるインセンティブが生じないため、産業の革新は必要ありません。
◆では、なぜ英国で【産業革命】が始まったのでしょうか? 「事の始まり」は、14世紀にさかのぼります。
(1) すべては、ペストから始まった
◆1347年9月、地中海に浮かぶイタリア・シチリア島のメッシーナ港に、数隻のガレー船が到着しました。その船には、多数のネズミが巣食っていました。彼らの毛皮には黒海からやってきたノミが群がっており、そのノミたちは、体内に病原体を宿していました。「ペスト菌」です。
◆「黒死病」の異名を持つこの伝染病は、その後4~5年間で西欧を侵害します。まず、イタリア、フランス、スペインの地中海沿岸に広まり、さらに感染範囲を北へと広げました。
◆1348年9月には、英国のブリテン島に上陸。翌年12月にはスコットランドまで到達し、勢力を東に伸ばして、スカンディナヴィア半島にも上陸します。1350年にはバルト海を渡り、現在のフィンランドやエストニア、ラトビア、リトアニアへ。1351年には、ロシアまで侵攻しました。
◆人類の歴史上、最大の疫病「ペスト」による死者数は、地域や研究によってまちまちですが、極めて死亡率が高かったという点では一致しています。
◆14世紀中頃からおよそ1世紀にわたり、西欧では平均11年~13年おきに「ペスト」が大流行しました。繰り返される「ペスト」の猛威によって、人口は大幅に減少しました。14世紀初頭の西欧の総人口は、約8,000万人だったと見積もられていますが、その何分の一かが消失したのは間違いありません。
◆15世紀前半には、西欧の人口は最低点に達します。英国やイタリア、フランス、スペイン、ドイツでは、「ペスト」流行前と比べて30%から40%の人口減少があったことが確かめられています。
◆このような「ペスト」の惨禍は、逆に英国に2つの恩恵をもたらしました。1つは「政治的な恩恵」、もう1つは「経済的な恩恵」です。
(2) 政治的な恩恵 … 独立自営農民「ヨーマン」の成立
◆14世紀前半までの西欧は、いわゆる「封建制度」に支配されていました。土地を所有する国王は、それを軍役と引き替えに封建領主に下賜(かし:忠節や功労に感謝するために物品など与える)し、さらに封建領主はその土地を農民に分け与えて、代わりに無給労働や年貢、税金を納めさせる、という制度です。英国も例外ではありませんでした。
◆「封建制度」の下では、農民は領主の許しがなければ土地を離れることができません。封建領主は、単なる地主ではなく、農民から見れば警察と裁判官を兼ねる存在です。要するに、当時の農民はほとんど「奴隷」のような身分だったのです。この時代の農民を「農奴(のうど)」とも呼びます。ヨーロッパ全土が「封建制度」を脱するのは、ずっと先の話です。
◆しかし、「ペスト」の大流行は、この「封建制度」にヒビを入れました。大幅な人口減少により、各地の荘園は深刻な「労働力不足」に見舞われたのです。これに乗じて、農民たちは自らの待遇改善を訴えました。
◆しかし、権力者側の英国政府は、1351年に「労働者規制法」を可決します。これは、農民たちの賃金と待遇を「ペスト」流行以前の水準に固定しようとするものです。ところが、政府の目論見は失敗しました。法律の遵守を強制した結果、1381年に農民一揆を招き、「労働者規制法」は有名無実のものになりました。
◆こうして、西欧の農民たちは、「奴隷的な身分」から解放されていきます。
◆特に、英国は他国よりも貨幣経済が浸透していた点が特徴的でした。14世紀までに、西欧では貨幣が広く流通するようになり、封建領主の中には無給労働や農作物ではなく、貨幣で地代を徴収する者が現れたのです。英国は、このような貨幣地代が特に普及しており、農民は市場で作物を売って貨幣を獲得し、地代を払った残りを自らの懐に貯えることができたのです。
◆貨幣経済が浸透している世界では、(言い方は悪いですが)お金さえあれば生きていけます。「待遇を改善しなければ、荘園から逃げるぞ」という農民たちの脅しに、英国の封建領主たちは真剣に向き合わなければなりませんでした。「貨幣とは、鋳造された自由である」というドストエフスキーの言葉は、正鵠(せいこく)を射て(物事の核心を正確に突いて)います。
◆英国では、農民の地位向上が続き、ついに自分で自分の土地を所有する農民が現れました。彼らを「独立自営農民」、英語で「ヨーマン」と呼びます。「ヨーマン」の成立という政治構造の変化は、【産業革命】への遠い伏線になります。以上が、「ペスト」がもたらした1つ目の「政治的恩恵」です。
(3) 経済的な恩恵 … 英国の毛織物産業、ヨーロッパを席巻
◆「ペスト」による人口減少で、西ヨーロッパの人々は、農民(働き手)不足により賃金は上昇し、(人口減少で)利用可能な土地が増えたことで、食料価格は下落(需要が減少)しました。また、大量死のおかげで、皮肉にも英国の人々の生活水準は向上したのです。
◆人口減少で恩恵を受けたのは、人間だけではありません。耕作地が牧草地に転用されたことで、家畜たちも栄養価の高い草を食べられるようになりました。これにより、英国では羊毛の品質が変わります。
◆中世までは、短く低品質の羊毛しか採れず、英国では「重たい幅広毛織物」しか作れませんでした。しかし、飼料の改善により、羊たちは長く良質な毛を生やすようになったのです。「ペスト」から1世紀半後の16世紀までに、英国では軽い「梳毛(そもう)織物(薄地で表面が滑らかで光沢感もある)」を生産できるようになりました。
◆「梳毛織物」は、英国の強力な輸出製品になります。英国の「梳毛織物」は飛ぶように売れ、17世紀にはイタリア製品を国際市場から駆逐してしまいます。「梳毛織物」の輸出の窓口となったのは、ロンドンです。大英帝国が世界を制覇するずっと前から、この都市は「国際貿易」によって成長してきたのです。
◆1500年には、わずか5万人だったロンドンの人口は、それから2世紀で10倍に増えました。1660年代に、ロンドンの港から輸出された輸出品と再輸出品の実に74%を「毛織物」が占め、労働者の1/4が海運業や港湾サービスなどの「輸出関連事業」に従事していました。
◆中世では、パンとビールと肉こそが豊かさの象徴でしたが、ロンドンの住民はその高賃金のおかげで、中世とは比べものにならないほど贅沢な生活を送れるようになりました。英国の農村に暮らす人々も、このようなロンドンの状況に疎かったわけではありません。自分たちもロンドンと同じような消費生活を楽しみたいと考えるようになったのです。ロンドンのような嗜好品を口にし、ロンドンのような奢侈(しゃし:贅沢)品を手に入れ、ロンドンのような家屋に住みたい――。
◆農村の人々が抱いた欲望は、英国の農業を変えることになります。
(4) 経済的な恩恵 … 英国の農業革命
◆「ヨーマン(独立自営農民)」の成立していた英国では、よりたくさんの農作物を収穫できれば、それだけ豊かな生活を送ることができたのです。ロンドンのような大都市が貪欲に食料品を消費したため、農作物の売り先に困ることもありませんでした。「ヨーマンたち」は、土地を改良し、農法を工夫し、農業生産性を向上させていきました。結果、単位面積当たりの小麦の収穫量は、1300年から1700年の間に約2倍に増えました。
◆18世紀に入ると、英国の農民たちは「イガマメ(栄養価が非常に高い家畜の飼料用)」や「クローバー(マメ科)」、「ターニップ(西洋かぶ)」などの新しい作物を育てるようになります。これらは、人間の食用だけでなく、家畜の飼料としても活用されました。農民たちは、羊毛をより高品質に、牛肉や牛乳をより大量に収穫したいと考えたのです。
◆ヨーロッパ人の主食である麦は、連作障害の起きやすい作物です。同じ場所で育て続けると土壌の栄養分を使い果たし、病気や寄生虫にも罹(かか)りやすくなります。したがって、数年おきに休耕地を作り、畑を休ませなければなりません。
◆18世紀の英国人は、この畑を休ませるサイクルに「イガマメ」や「クローバー」などの新しい作物を組み込みました。休耕地で「クローバー」を育てて牧草地として利用することで、地力(ちりょく)を回復させながら畜産品を収穫できるようにしたのです。また、この時代には「ヨーマン」の状況も変わっていました。自分の土地を売り払い、ロンドンなどの都市で暮らす人々も珍しくなくなっていたのです。
◆一方、そうやって売りに出された農地を買い取り、大地主となる者も現れました。彼らは、資本家として土地を農民に貸し、農民は小作人を雇って農業経営に勤(いそ)しむようになりました。現代の企業における、株主と社長、従業員のような関係です。
◆以上のような、近世の英国の「農業革命」の成果には、目を見張るものがあります。1300年から1800年までの500年間で、乳牛1頭当たりの搾乳量は3.8倍に、羊1頭当たりの羊毛は2.3倍、羊肉の重量は2.7倍に増えたのです。ロンドンの高賃金に牽引されて、他の地域でも給与水準が上がりました。農業の生産性が向上したことで、農民の賃金も上昇しました。
(5) 経済的な恩恵 … 石炭の普及
◆ブリテン島は、石炭の鉱脈に恵まれた土地です。しかし、単にたくさん採れるというだけでは石炭は普及しません。暖房や調理に使用するうえで、石炭には致命的な欠点があるからです。それは、燃焼時に硫黄臭を発することです。中世までの英国の一般的な家屋には、煙突がありませんでした。吹き抜けになった大部屋を設けて、その中央に背の低い炉を据えて、そこで煮炊きをしていたのです。
◆このような旧来の家屋では、石炭が利用できません。石炭を活用するには、高い技術力が必要なのです。効率よく燃やすために、石炭を小さな場所に囲い込み、空気の流れを調整し、悪臭の対策として煙突を作り、そこから逃げる熱を最小限にして―。石炭を利用できる家屋の設計には、試行錯誤が必要でした。また、ロンドンでは、例外的に以前から木材は、安価な石炭の価格とほぼ同じでした。ロンドンでは、田舎以上に石炭を使うメリットがなかったことになります。
◆しかし、毛織物産業の成功により、事態が一変します。ロンドンの人口は爆発的に増え、都市圏は広がり、絶えず家屋が新築されるようになったのです。結果、1550年代以降のロンドンでは、木材の価格が急騰し、石炭の2倍以上になりました。
◆都市が成長すれば、そこで使われる燃料の需要も拡大します。しかし、木材は簡単に供給を増やすことができません。1500年に、わずか5万人だったロンドンの人口は、1600年には20万人に膨らみました。木材の供給がまったく追いつかなかったのです。
◆したがって、ロンドンは近郊の森林だけでなく、英国全土から木材を購入しなければなりませんでした。こうして、ロンドンにおける薪や木炭の価格は高騰し、石炭を使うことにメリットが生まれました。また、建築業者から見れば、格安の石炭を利用できる設計は、大きなセールスポイントになります。こうして、石炭を家庭利用するための技術が磨かれていきました。
◆極めつけは、1666年9月のロンドン大火です。約1万3200戸の家屋が燃え落ち、教会や市庁舎などの公共建築も多数が崩壊しました。人的被害は軽微だったものの、都市の大部分が炎に包まれたのです。これを受けて英国政府は、燃えやすい木造家屋をロンドンに建てることを禁じました。石とレンガと煙突のあるロンドンの街並みは、このときに生まれたのです。
◆1570年に約23万トンだった英国の石炭生産量は、1700年には約299万トン(13倍)に、1800年には約1,505万トン(65倍)に達しました。当時、これに匹敵する大規模な「石炭産業」を擁していたのは、ベルギー南部だけで、それでも1800年頃の生産量は年間約200万トン、英国の13%にすぎませんでした。
2.“産業革命”とは
◆18世紀の英国は、世界でもっとも賃金が高く、燃料費の安い地域でした。だからこそ、【技術革新】への需要が生まれました。例えば、世界で初めて実用化された「蒸気機関」は、トマス・ニューコメンの「揚水ポンプ」です。これは、1712年にダドリーの炭鉱で稼働を開始しました。それまでは、人間や家畜の力で行っていた坑内の排水を、蒸気機関で行えるようになったのです。
◆「繊維業界」に目を向ければ、1764年頃にジェームズ・ハーグリーヴスが発明した「ジェニー紡績機(紡績:繊維を糸の状態にすること)」は、破壊的な「技術革新」でした。それまでの手紡(てつむ)ぎ車では、1本ずつしか作れなかった糸を、一度に8本以上も作れるようになったのです。
◆1769年に特許を得たリチャード・アークライトの「水力紡績機」。これは、それまで人の手で行っていた「綿の繊維を伸ばす動作」を、圧延ローラーによって再現した装置です。文字通り、水車を動力源としていたのです。
◆【産業革命以前】の世界では、水車は安定した回転力を得るほぼ唯一の手段でした。これは、後にニューコメンの「蒸気機関」と組み合わされます。「揚水ポンプ」で高い場所にある溜め池に水を送り、そこから流れ落ちる川で水車を回したのです。
◆これら【産業革命初期】の発明品には「労働を機械に置き換える」という共通点があります。「人件費を資本に置き換える」と言ってもいいです。当時の英国は、高賃金だったために労働を節約することで利益が出せたのです。
◆【産業革命】には、「この日に革命が始まった」と呼べるような日時が存在しません。また【産業革命】がある日突然始まったわけでもありません。しかしながら、私たちは未だに【産業革命】の渦中にいます。
◆一つ一つの変化は、わずかです。ところが、200年後の現代から振り返ってみれば、明らかに18世紀末に目覚ましい変化が起きているのです。1万年の人類文明の中でも、とびきりの変化があったのです。この変化が【産業革命】です。
3.経済成長を止める日本の老兵たちの先例
◆世界最古の蒸気機関は、西暦100年頃のアレクサンドリアにあったとされています。「ヘロンの動力機」と呼ばれるそれは、蒸気の噴き出す勢いで中央の球体を回転させる、一種の蒸気タービンでした。
◆実のところ、この装置が実在したかどうかは判っていませんが、蒸気から動力を得られるということを当時の人々はすでに知っていたのです。しかし、古代アレクサンドリアでは、【産業革命】は始まりませんでした。
◆1589年、ウィリアム・リーという英国の司教が自動靴下編み機を発明しました。彼は、特許を得るために意気揚々とロンドンへ出向き、エリザベス1世と謁見します。ところが、女王の対応はけんもほろろでした。靴下職人から仕事を奪うとして、靴下編み機の事業化が許されなかったのです。英国で【産業革命】が始まるのは、それから1世紀以上も後のことです。
◆これらの例から判るのは、優れた発見や発明があるだけでは世界は変わらないということです。その発見や発明が広く使われるようになり、さらに新たな発見と発明の土台となって、ようやく世界は変わります。
◆【産業革命以前】の世界にも、「技術革新」はありました。しかし、それらは散発的で科学技術と経済の発展は遅々として進みませんでした。
4.産業革命と植民地政策&奴隷制
(1) 産業革命と植民地政策
◆【産業革命】は、英国をはじめとして西欧諸国から始まりましたが、そこで成立した企業は、次第に資本の淘汰が進んで巨大化し、さらに大規模な原料供給地と市場を求めて、「植民地獲得」に向かうこととなったのです。
◆これらの諸国の「植民地獲得」は、すでに17世紀から進んでいましたが、重商主義段階の特許会社による金銀や貴重な奢侈(しゃし)品、嗜好品の獲得といった活動から、企業の自由競争のもとで、自国工業の原料を安価に獲得し、さらに自国工業製品を独占的に売りつける市場としての「植民地獲得」をめざし、各国が競争する時代となっていったのです。
◆南北アメリカ大陸、アフリカ、日本を含むアジアがその標的となったため、これらの地域にとっても大きな変動をもたらすこととなりました。
(2) 産業革命と奴隷制
◆英国の【産業革命】の背景には、西インド諸島とアフリカ西海岸を結ぶ「黒人奴隷貿易」と密接な関係があります。【産業革命】の始まりである綿工業の機械化は、綿織物の需要の急増を要因としていました。
◆当初は、インド産の綿織物を輸入していましたが、需要が増大したため、綿織物の国内生産が始まります。その時、原料の綿花は、まず西インド諸島からもたらされました。その西インド諸島の綿花生産は、「黒人奴隷労働」による「プランテーション」で行われたので、「黒人奴隷労働力」がさらに必要となり、「黒人奴隷貿易」がさらに盛んになっていきました。
◆このように、英国の【産業革命】は、「黒人奴隷貿易」と不可分に結びついていました。英国の【産業革命】を単なる「技術革新」の歴史としてみてはなりません。このような視点は、西インド諸島のトリニダード・トバゴ出身の歴史家エリック・ウィリアムズが「資本主義と奴隷制」で示したもので、現在ではウィリアムズ・テーゼ(英国資本主義の成立に西インドの奴隷制が大きく関わっていたかの論証)として重視されています。
なお、ウィリアムズはトリニダード・トバゴ独立運動の指導者で、独立後も首相を長く務めた人物です。
