1.江戸(徳川)時代の“人間学教育”
◆我々の先人たる江戸(徳川)時代の武士たちが、「大学」や「論語」などの古典の学び方について、その参考になる書籍「江戸の読書会 会読の思想史」(著者:前田勉)があり、下記がその要点になります。
【我が国の人間学】を“修得”していくための順番が、下記の流れになります。
(1) 素読(そどく)
(2) 講義・講釈
(3) 会読(かいどく)
(1) “素読”… 句読(くどく)/誦読(しょうどく)ともいいます
◆漢文の意味や内容を解釈(理解)せず、ただ声をあげて文字のみを読み習い、暗誦する(書いてある文章を頭に記憶し、それを見ないで文章を声に出して唱える)ことが【素読】です。
具体的には、先生が一人一人の生徒の前で、一人一人の進み具合に応じて、テキスト(大学や論語)の漢字一字一字を字突き棒(30cm程度の棒)で指しながら、ゆっくり進み、生徒はそれを復唱します。
次回までに今回の分を暗誦してきて、先生の前で「スラスラ」と誤りなく読むことができれば、先に進むことができます。もし、間違って覚えていたりすれば、もう一度前に戻って正しく読めるようにしたうえで、先に進みます。
◆このように、テキストを丸暗記します。もちろん、意味や内容を解釈しないといっても、まったく意味が理解できないわけではありません。そこに含意(表面に現れない意味)されている深達な意味は判らなかったとしても、ある程度は理解されたことであろう。
ただ、【素読】の段階では、そうした理解は付随的なもので、ひたすら暗誦し、テキストの丸暗記が求められました。
最初のテキストは、「文字が少なく、難しい字も少なく、読みやすく、覚えやすいものから始めるべし」として、【素読】の重要ポイントは、「書物を嫌う心」を持たせないようにしていました。
◆参考に、福山藩の藩校・誠之館の例を下記に記載しました。驚くことに、「孟子」を除く「四書五経」の【素読】を14歳までに修了していることです。

(2) “講義・講釈”
◆15歳前後から、先生から生徒たちの前で「経書(けいしょ)」の一章、あるいは一節ずつを口頭で講解(意味や内容を解説)して聴かせる一斉授業としたのが【講義・講釈】です。
(3) “会読”
◆15歳頃から【講義・講釈】と併行して行われるのが【会読】です。
【会読】の創始者は、荻生徂徠ら18世紀の朱子学者です。蘭学の有名な訳書「解体新書」も、杉田玄白らの【会読】の産物だったといわれています。
◆【素読】と【講義・講釈】が主に下級者の学習方法であったのに対して、【会読】は、それらを修得した上級者が「一室に集って“所定の経典(きょうてん)”の“所定の章句”を中心として、互いに問題を持ち出したり、意見を闘わせたりして、集団研究をする共同学習の方式」であると定義され、その自己啓発的な学習方法が高く評価されています。
◆【素読】と【講義・講釈】は、先生から生徒への一方向的な教授・学習方法であり、上下貴賎の身分的秩序の忠孝道徳を教える儒学に誠に相応しいものですが、【会読】はそうした上から下への一方向的な教授・学習法ではなく、基本的には生徒たちが対等の立場で、相互に討論しながらテキストを読み合うものでした。
そこでは、先生は生徒たちの討論を見守り、判定する第三者的な立場にいることが通例でした。このような学び方が江戸(徳川)時代、藩校や私塾の中で盛んに行われ、活発な討論が行われていたという事実は、以外と知られていません。
◆【会読】のその当時の「議論のマナー」のような注意書きがあり、金沢(加賀)藩・明倫堂に次のような条文があります。
⇒【会読】という手法は、真理を探究し、これを明らかにするために、互いに虚心(きょしん)の状態で討論をするという趣旨のものである。
◆「虚心」の意味は、荻生徂徠ら学者がそれぞれの意味で使っていますが、「虚心坦懐(心にわだかまりがなく、気持ちが素直でさっぱりしている)に読書する」というときの「虚心」と、議論の場で中立的である「虚心」に耳を傾ける、という両方の意味があります。
◆そしてこのあと、金沢(加賀)藩・明倫堂の条文に、下記のようなたくさんの「戒(いまし)め」が入ります。
⇒中には、自我へのこだわりが入り込み、勝ち負けの場にしないではいられないという気持ちが強くなり、弁舌(ものの言い方)を争うばかりで、物と事を深く問うたり内省したりする心がなく、やたらと自分は正しく、他人は間違っているとする気持ちが見られるのは、見苦しいことである。
⇒それに、自分一人が物知りだからと勝ち誇った様子をすること。他人の抜け漏れを突いて物笑いの種にすること。自分の間違いをごまかしたり、他人の意見に付和雷同(むやみに他人の言動に同調)すること。判ったふりをして他人の意見を表面的に聞くこと。自分が正しいとして疑いを持たないこと。疑わしいことがあっても他人に任せて安んずること。人に手間をとらせるのを遠慮して質問をしないこと。未熟さを恥じて発言しないこと。
⇒上記のようなことが一つでもあっては、上達の道はないので、自分自身を省察(自分自身を顧みて、その良し悪しを考えること)し、堅く慎むべきである。
◆【会読】では、「疑義(正しいかどうか、本当かどうか確信がもてない点)」を問うことが求められています。他人の説を盗んだり、付和雷同せずに、自ら疑問を持つこと、それに加えて、その疑問を自分自身の内に留めずに、先輩に問うて解決することが要請されています。
【会読】の場では、疑問を出すことが「“尊卑先後(そんぴせんご)の序(原理原則)”に拘(かか)はらず」、どんな初学者にも認められ、むしろ、積極的に求められています。恥ずかしがって、疑問をそのままにしてしまうことは否定されます。
そのうえ、【会読】に参加した「満坐(その場にいるすべて)の者」は、そうした外に出された疑問がどんな初学者の幼稚なものであっても、「虚心」に聞き、笑ったりしてはいけないと注意されています。
◆「虚心」という言葉で表現されていますが、それは異質の他者を受け入れる態度であり、自分勝手さを抑制し、異なる相手を寛容するような「徳」を身に付けることです。すなわち、自己の偏見をかたくなに主張したり、他人の意見を抑圧するようなことはしない。そこに完璧な「人格者」になるための姿勢が求められました。
◆江戸(徳川)時代は、正に確固たる身分制度のもとにありました。しかし、藩校においても私塾においても、さらには徳川幕府の昌平坂学問所においても【会読】は行われました。
その「場」においては、入門者は「父」「師」「君」という「属性」から自由になりました。これによって、年齢の上下にかかわらず、それ以前、誰から学び、どの程度学んだという実績も関係なく、さらに武士や庶民などの身分の別なく、自分自身の実力のみが試されるようになり、こうした「場」が現実の身分制度の社会とは異なる空間でした。
◆その【会読】の「場」では、自主的にお互いに学び合うことが基本であり、上からの知識の刷り込みではなかったのです。また、江戸(徳川)時代後期には藩校が隆盛を極めましたが、現代の我々が思う以上に緩やかな組織で、他藩の留学生が横断的に学び合い、明治維新の思想的潮流を作り出しました。
◆吉田松陰の松下村塾もまた、この【会読】によって学んだ若者によって、身分制度から自由な運動体が生まれました。
江戸(徳川)時代の「読書会」は、静かに読書をする集まりではなく、喧々諤々(けんけんがくがく)の討論の「場」であったのです。また、江戸(徳川)時代の【会読】は、高等な学問の「場」でもありました。【会読】は、「自分自身の心を高める場」であったのです。
(4) 現代の社員研修との比較
◆今日、社員研修などで行われている“グループディスカッション”と比べてみて下さい。
この【会読】の特長は、「疑義を問うこと」です。どの会社でも行われている今日の「グループディスカッション」では、この「疑義を問うレベル」になっていないのが実情でしょう。
◆ゆえに、本当の「自分自身の心を高める場」になっていません。
(5) 薩摩(島津)藩の“詮議教育”
◆例えば、「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか?」とか、「殿様の命を受けて合戦中の味方の助太刀に出陣中、自分の砦が敵に襲撃された。引き返して自分の砦を守るか? それとも、自分の砦は見捨てて殿様の命に従うか?」とか、「道で侮辱された。どうするか?」といった起こり得るリアルな設問を次々と挙げ、各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論します。
いわゆる「ケーススタディ」であり、想定外などと言う逃げは許されない責任を意識するための際限のない「イメージ訓練」でした。
◆【詮議教育】は、戦国時代くらいまでは、日本中で行なわれていた模様です。
江戸(徳川)時代になるまでは、公家や荘官や守護大名のような、ごく一部のエリート以外は字を読めなかったので、一般的に武士は、戦の成功・失敗事例を文字でなく、耳で学び、皆で議論し、実践的スキルを向上させる「学習会」を行っていたと言われています。
例えば、織田信長の比叡山焼き討ちの事例を学ぶ場合、「仮に信長が、焼き討ちをしなかったら、どうなったのか?」とか、「焼き討ちという戦法は正しかったのか?、他に方法はなかったのか?」「信長の焼き討ちを思いとどまらせるには、どのようにしたらよかったのか?」等を議論しました。
◆この【詮議教育】によって、ぶれない信念をもって日本の正しい進路を導ける多くの人材が育ったのです。
これは、まさに「危機管理訓練」そのものであり、現代日本の若者は勿論のこと、企業も涵養(水が自然に染み込むように)しなければならない重要な資質であります。また、「義とは何か?」といったテーマで議論を繰り返し、そうした日常生活の規範を、それぞれが内面化していく【道徳教育】も行われていました。

